|
山口敏太郎・原稿 連載2
この項は、山口敏太郎が各種雑誌・メデイアに連載した原稿のうち単行本に収録されていない原稿を中心に掲載されており、一部の収録原稿、未発表原稿を含む。 ****************************************
サイト妖怪王トップページ http://www.top.ne.jp/aliceweb/youkai/ *************************************** 妖怪草子〜怨霊巡礼歌1 七天王塚の怨霊 山口敏太郎 魔物は現在も存在する。例えば、文明の象徴とも言える医学の学舎に魔界の入口がぽっかりと空いている事もあるのだ。千葉大学医学部のキャンパスには不思議な伝承のある塚がある。人呼んで「七天王塚」という。この七つの塚を崩したり、塚の木を切ったりするものには凶事が起こると言われている。将門配下の七騎武者の墓であるとか、北斗信仰の名残とか言われているが、その由来は定かではない。只、医学の神である牛頭天王が塚の上には奉られ、医学部との因縁を感じてしまうのは私だけだろうか。 ちなみに、将門伝説には”七の数字”が関連する場合が多い。千葉県市川市の”藪知らず”は将門の「七人の影武者」を埋葬した場所と言われている。また千葉県木間ヶ瀬村には将門自らが植えたという「七本桜」がある。更に将門と藤原秀郷が激闘を展開した西多摩には「七ツ石山」という将門と影武者を扱った伝説が残っている。 どうやら将門の霊的パワーは”七”という数字に裏打ちされているようだ。一説によると秀郷によって討たれた将門の身体からは、七つの魂魄が飛び出たと言われている。やはり、将門は妙見信仰(北斗七星)を駆使し、七つの影武者や七騎武者を操り、関東を制覇したのであろうか。将門の作ったこの霊的システムはいまも稼働している。七天王塚では今も怨霊が、かかわる人々に”将門の呪い”を慣行しているのだ。 **************************************** サイト妖怪王トップページ http://www.top.ne.jp/aliceweb/youkai/ *************************************** 妖怪草子〜怨霊巡礼歌2 怪談門昌庵 山口敏太郎 10代松前藩主矩広は、幼くして君主の座に着くが、悪臣に翻弄された挙げ句、正妻を毒殺されてしまう。妻の死後、矩広は家臣の妹である松江という美女に恋心を抱くようになる。しかし、悪臣どもは、主君の歓心を奪われたと松江を妬み、門昌という和尚と不義密通を働いていると諫言してしまった。激怒した矩広は、松江を斬り、門昌を熊石で打ち首にするという凶行に及んだ。 門昌は首をはねられる前に、自らの供養の為、大般若経を読む事を哀願した。追手の者が許すと何故か逆さまに経文を読み上げた。すると門昌の目の前を流れる川が突如逆さに流れ始めたという。世に言う「熊石のさかさ川伝説」の始まりである。 更に首を持ち帰る一行は、暴風雨を避けるため円融寺に泊まったが、その夜首桶から火災が発生し、寺が焼けてしまった。祟りを怖れた松前藩は一行を熊石に追い返し、そこで門昌の首を埋葬させた。それが現在の門昌庵である。しかし、祟りはこれで終わらない。首をはねた一行のある者は狂死し、その一行に草鞋を売った家、泊めた家も不幸に見舞われた。藩主一族には夭折するものが続出し、江戸藩邸にも火災や、重臣の変死などが発生し、門昌の祟りは松前藩を震え上がらせた。その後、反省した矩広が、門昌の菩提を篤く弔ったところ、祟りは沈静化したと伝えられる。 坊主を殺すと七代祟るとはまさにこの事である。 **************************************** サイト妖怪王トップページ http://www.top.ne.jp/aliceweb/youkai/ *************************************** 妖怪草子〜怨霊巡礼歌3 米一丸地蔵尊 山口敏太郎 福岡市の米一丸踏切付近に米一丸地蔵尊という史跡がある。筆者の身内がかつて付近に居住していた関係もあり様々な話を聞く事ができた。自転車で塔の前を走ると後部座席が重くなるとか、深夜、塔の周辺を人魂が浮游するとか、兎に角やたらと怪談の多い史跡であるらしい。付近にもう一ケ所供養搭(軍人関連の塔らしい)があるのだが、その二つを結ぶラインに並行した線路が事故多発地帯であるという。今年の9月現地取材に出かけたが、その佇まいは恐怖を喚起させるには充分であった。心より犠牲者の成仏を願いたい。 それでは米一丸伝説を紹介しよう。木島長者の息子に生まれた米一丸は、世にも美しい湯川長者の娘・八千代姫を妻に迎える。だが、米一丸の主人である京の一条殿は、八千代姫に横恋慕し、米一丸を亡き者にすべく陰謀をめぐらす。そして、一条殿は博多で借金の肩として入質している家宝の太刀を取返して来るよう命じた。主人の命に逆らえず、米一丸は、愛しい妻を残し、博多に赴くが、金額が足りないと言って相手はなかなか返却に応じない。一方、一条殿は米一丸の留守を良い事に、八千代姫に言い寄るという非道にでる。更に一条殿とグルになっている博多の守護職は、米一丸に刺客を送り込む。追手を切り伏せながら、米一丸は怨みながら絶命していったという。また米一丸を心配し、博多に出向いた八千代姫も米一丸の死を聞き、自害してしまうのである。以後付近では怪異が頻発し、現代の怪談として「米一丸伝説」が語り継がれている。恋は人を魔物にするのだ。 **************************************** サイト妖怪王トップページ http://www.top.ne.jp/aliceweb/youkai/ *************************************** 妖怪草子〜怨霊巡礼歌4 通り魔と四面塔 山口敏太郎 池袋に四面塔という史跡がある。奇妙な名前の史跡だが、約二百八十年前の享保年間の事である。高田雑司ヶ谷から板橋への街道と、礫川から東長崎への街道の交わる四ツ辻付近(現在の西武線池袋駅東口)で、夕方になると通り魔や辻斬りが横行し、人々が恐れ、夜間の人通りが途絶えてしまった。人々の往来によって生活を営んできた地元住民は危機感を抱き、殺人行為を鎮める為に四面塔を建立した。兎に角、多くの人が犠牲になったらしく、多い日は1日に17人もの人間が犠牲になったとされる。 四面塔はカンボジアのアンコール・トムのバイヨン寺院にも見られ、観音菩薩の顔をかたどった仏教建造物とされている。池袋の四面塔も、観音菩薩の力で通り魔・辻斬りの被害を防ごうという意図があるのであろうか。 そもそも通り魔という言葉は、妖怪の名称である。江戸の随筆「世事百談」「思出草紙」などには「通り悪魔」として記録されている。ある時は甲冑を着た武者であったり、時には襦袢を着た怪しい男であるという。この妖怪を見た時は心を冷静に保って、目を閉じれば問題ないが、憑依されてしまうと刃物を振りかざし、殺傷沙汰に及んでしまう。人間の心の闇には、このような魔物が潜んでいるのであろうか。 1999年、池袋東急ハンズ付近の路上で、通り魔事件が発生した。10名の男女が包丁とハンマーを持った男に次々と襲われ、2人の死亡、6名の重軽傷という被害が発生した。四面塔の願いもむなしく、世紀末に再び惨劇は起きてしまった。被害者の冥福を心から願いたい。弱き心による無意味な犯罪は、二度と繰り返してはいけないのだ。 **************************************** サイト妖怪王トップページ http://www.top.ne.jp/aliceweb/youkai/ *************************************** 「お達者語り部倶楽部」 I さん(70代)前編 聞き手・山口敏太郎 この土地を、何故古和釜と呼ぶかわかりますか。釜とか、穴とか、掘とかは低いとこを意味した土地なんですよ。だから古和釜と言うのです。 また何故低いとこに住んだかと言うと、理由は風(風害)が怖いんですよ。穴なら風除けになるでしょう。あと水も近い、それに鹿が水を飲みにきたりするでしょ。その帰りに鹿を捕るのですよ。斜面を登る時に動きが鈍いので、背後から討ったみたいですよ(笑) 実際の古和釜の集落は昔はもっと向こうにあったんだけどね。元々は足利尊氏の三男坊が、親に勘当されて、定着したのが始まりだね。 今の神社の始まりは、将門の征伐軍に従軍した人が”護り本尊”を背負ってきたんですが、将門が討たれたという一報を聞いたので、そこに本尊を置いて奉ったのが最初なんです。私の先祖はその時に、本尊をお奉りする為に残ったわけです。 私は少年時代から飯炊きをやりましたよ。うちの親父が5時に起きてきますからね。親父が先に起きたら先に飯を炊かれちゃう。親父の焚いた飯は食えますか(苦笑)申し訳なくて、食えないですよ。あと釜洗うのが恥ずかしかったね。特に近所の人の目が恥ずかしかった。21歳で家建てた時は、近所の人から見えない位置に台所を作りました。あと、親父は釜のケツまで綺麗に洗わないといけない人でしたね。黒い炭の部分ね。 また親父は厳しい人でね。左膳では飯は食わない。あと私が親父の話を聞いてなかった時の事ですが、火箸を投げられて、掌を貫通した事がありましたね。でもそんな怪我、酒で消毒して終わりですよ(笑)ほら、掌のここに傷が残ってます。 **************************************** サイト妖怪王トップページ http://www.top.ne.jp/aliceweb/youkai/ *************************************** 第2回 「お達者語り部倶楽部」 I さん(70代)後編 聞き手・山口敏太郎 関東大震災の影響はなかったんですが、第二次世界大戦は爆弾が古和釜にも落ちましたね。犠牲者はなかったけど、(爆発による)大きな穴が空いていた事を覚えています。東京を空襲した帰りに、爆弾を捨てて帰るんですね。戦後も芋がとれてひもじい思いはしてませんね。ある時、東京から訪ねてきた人が名刺を差し出すと、遠い親戚なんですよ。おかげで芋をあげちゃった(笑) あと田んぼに纏わる話は多いよね。穴だらけの股引で田んぼの作業やって、終ったら穴にどじょうが入っていて、その夜はどじょう鍋をしたとか、田んぼからあがろうと思って木の根っこを掴んだら、兎の足だったとか、そんな笑い話もありますね(笑) また私はね。神社に随分つくしたものですよ。ですが、ある時うちの家で毎月のように事故が続く、これは変だぞという事で知り合いの行者に見てもらうと、神様の祟りらしい。こんなに信心しているのに何故と思ったけど、よく考えて見ると、神社の奉仕作業をやった時に、(本業の建設業の)便所解体で使った足袋を履いてたんだね。早速神様にお詫びしたところ事故はなくなりました。 でも神様の祟りってものはあるんだよ。ある人が隣人の一部の土地を分けてもらって増築したんだけどね。ところがさ、そのわけてもらった土地が、亡くなったおじいさんがお稲荷さんのお札を奉っていた土地だったわけだ。おかげで障りがあったらしいよ。怖いね。とにかく、奉るとなんでもない場所に神様が来ちゃうからね。そういう想いが神様を作っちゃう。神様の住む場所に人間が住むといろいろ障りがあるんだよな〜。 **************************************** サイト妖怪王トップページ http://www.top.ne.jp/aliceweb/youkai/ *************************************** 第3回 「お達者語り部倶楽部」 さん(80代)前編 聞き手・山口敏太郎 最初小学校低学年の時は、古和釜の分校に通ってね。小学校5年から金堀の本校に通ったよ。その時お化けだ出るよって話がありました。山の中から出てくるって言われました。今は町になっちゃったけどね。まあ変な人がいたら「お化けだ、お化けだ」って言ってたんでしょうね。 遊びは、投げボールとかやりましたね。八千代とか、白井とかと投げボールをやりましたね。古和釜は強かったですよ。八千代(のチーム)は弱くてね。白井に(対戦)しにいきました。 狸は最近初めてみましたよ。植木屋さんが「婆ちゃん、狸がいるよ〜」って言うので見たら小狸でね。あと子供の頃は、狸は全然みなかったね。 昔はよく狐に化かされるって言ったよね。よくばかされる人は丘の方まで迷わされて言っちゃうって聞きましたね。 家の鍵なんか閉めなかったねえ〜。泥棒は、いなかった。一度入られたけど、とられなかったね。 よく物売りも来たね。金物屋が来たんで、小豆とボール(金属製の手製のもの)を取り替えた事もあるね。今もあるよ。(と言いながらボールを見せてくれる)爺さん兵隊から帰って来た後だから、50年ぐらいかな。 **************************************** サイト妖怪王トップページ http://www.top.ne.jp/aliceweb/youkai/ *************************************** 第5回 「お達者語り部倶楽部」 斎藤さん(82才)前編 聞き手・山口敏太郎 この辺りは斎藤やすべえさんという大地主抜きには語れないね。(歌人の)斎藤その女が出た家で、台所で御神輿が担げたり、軍隊が泊まったりするぐらい大きかった。昭和の初めの頃かな、その家のお嬢さんが女子大に行って、東京帝国大卒の弁護士の婿さんをもらったんです。若夫婦は船橋に家を構えてたね。いい人でね。今日浪曲があるから来いって(近所の人々を)ハイヤーでよく迎えに来てくれたね。 子供時分は、めじろをとったり、弾拾いをやりました。ここらは軍隊が演習してるんですが、その弾を鎌で探し集めて、業者に売って、こづかいにしたものですね。 そのあと徴兵検査で甲種合格になり、北支から南支まで、あちこち行かされました。分隊で亡くなった者は分隊で焼くんですよ。一晩で焼けちゃいますからね。その場に埋めていっちゃうんです。こんなところで死にたくないなって思いました。食料探しに行って、敵に討たれて危なかった事があったね。稲穂の中、逃げたんですが、稲が動くからわかるんですよ(笑)21年の暮れに帰って来ました。南京の司令部から攻撃中止の命が来た時は、助かったって思いました。 ****************************************
サイト妖怪王トップページ http://www.top.ne.jp/aliceweb/youkai/ *************************************** 第6回 「お達者語り部倶楽部」 斎藤さん(80代)後編 聞き手・山口敏太郎 戦争から帰って来た後、斎藤本家の婿さんだった弁護士さんは亡くなってしまったね。分家はまだ近くにあるんだけど、本家の人達は今どうなっているのかな。自宅では(自分の)兄弟が生まれていて何処の家の子がわからなかったよ(笑) それにしても昔は楽しかったね。メジロをとったり、あと鰻はいくらでもいた。1mの糸に針つけてとるんです。あまり食べなかったけどね。あと松脂って良い油でね。松のたん瘤みたいな部分に出る脂は甘いんだよ。 昔は斎藤本家に年貢おさめたけど、屋根まで米が積まれたもんだ。あと畑銭、山銭も払ったね。その後、昭和10年頃かな、婿の弁護士さんが、東京のイケガヤ鉄工に土地を売り、製材所ができたね。それで村は活気づいた。農業ほったらかしで村総出で製材所で働いたもんだよ。材木にしたり、薪にしたり。このあたりに木こりの組合さえあった。馬持っているものは木を運んだり、女たちは炭焼きを手伝ったりしたね。結局、終戦前に村の木を全部東京に送っちゃったんだよね(笑) それから、終戦前に、今度はイケガヤ鉄工がまた他に土地を売っちゃったんだよ。このままでは土地をとられちゃうんで、製材所で稼いだお金で、借地を買いとったね。その時に親戚から金借りてでも土地買った人は得したね。 今は虫もいないし、畑で作るモノも変わっちゃった。兎ごはんはおいしかったな。兎が歩く道はわかっていたからね。 そう言えば習志野にロジュンの要塞の模型があってそこには狐が棲んでいたらしいよ。狐の嫁入りとかよく聞いたな。 そう言えば軍隊時代に佐倉連隊駐屯地の井戸から声が聞こえてくるという話を聞いたね。佐倉宗吾の霊かね(笑) ****************************************
サイト妖怪王トップページ http://www.top.ne.jp/aliceweb/youkai/ *************************************** 第7回 「お達者語り部倶楽部」 吉橋さん(80代)前編 聞き手・山口敏太郎 私の屋号は与左衛門さんといいまして、この集落を始めたと言われてますね。うちを含め吉橋3兄弟が元だねって言われてます。今11軒のうち6軒が吉橋姓です。 多分戦国時代に八千代にある吉橋城にいたのが、ここに移ってきたと聞いています。(八千代時代の敵の目を欺く為に)当初は山の中に住んでいたようで、今も裏山には平な場所で”古屋敷(ふるやしき)”と言われる場所があります。 うちの集落で祀っている熊野神社は1500年の歴史があるんですよ。八千代時代からあったものなのか、先祖が紀州からもってきたのか不明ですが、あとは、湯殿神社が文化元年あたりものですかねえ。 八千代にはもう吉橋姓はあまりいないらしいです。地名は残ってますがねえ〜。始まりの三兄弟を長男から言っていくと、与左衛門、五郎左衛門、そして何故か一番下の弟の家が吉野家です(笑)途中で何か商売でもやったのでしょうか。 他に斎藤五郎兵衛の流れが大きな流れですね。お金持ちだった斎藤安兵衛さんも五郎兵衛さんの流れからでたんですよ。 他に余所から婿さんが来た時に、その婿さんが優秀な場合、「二代先祖」 として、婿さんの名前を名乗る場合もあるんですよ。そうとう優秀な婿さんじゃないといけないけどね(笑)今も斎藤家と金子家という二つの名前が同じ先祖として祀られているんです。当時の封建社会で苗字を変えるというのは大変な事ですよ。親戚とかが納得しないといけないからね。 私の子供の頃は、「豆腐一丁食べなければ、その分の土地が買える」なんていったもんです。今の人からみると、変な話ですが当時はそれぐらい土地への想いがあったもんですよ。 **************************************** サイト妖怪王トップページ http://www.top.ne.jp/aliceweb/youkai/ *************************************** 第8回 「お達者語り部倶楽部」 吉橋さん(80代)後編 聞き手・山口敏太郎 子供の頃は銃弾拾いやって小遣い稼ぎました。一日いっぱい拾っても5銭ですよ。大きなせんべいが2枚で1銭ですからね。もう大変なお金です。あと古金拾いのおじいさんがいてね。白撃弾が地中に30cm埋まっているのを見つけて売りました。これがなかなか見つからない。兵隊からは危ないからって追い払われたんでんですが、銃弾の薬莢など拾ったら大喜びです。真鍮ですからね。 たなご、どじょう、ふなとか川でご飯粒で釣りましたね。あと独楽回しとか、面子もやりましたね。面子の柄は義経が人気あったね。ベーゴマも人気あったね。コンクリ打った場所で、ベーゴマを尖らして(勝つ為に)工夫しました。 鳥はメジロ、ホオジロを捕りましたね。ぶっ被せという取り方がありました。中学になったら鳥餅が出てきましたね。 当時は腹へってね。農家の人が麻袋に芋入れて積んでいるのを生で食べたりしました。あとポツダム宣言の時はまだ学生で、意味がわからなかったね。友達は全員絶対勝つって言ってましたが、中には「戦争は絶対勝つとは限らない」とか言う友達がいました。みんなでいじめてね。あと肉弾三勇士とかが教科書に載ってましたね〜。 漫画と言えばのらくろ上等兵がおもしろかったね〜。中学の頃は、東海林太郎が良かったね。年1回とか、レコード持ってきて近所のみんなで聞いたもんですよ。中学では軍歌歌わされて、「勝ってくるぞと勇ましく♪」ってね。朝の朝礼の時に皇居に向かって最敬礼しましたね。私らの分校では乃木将軍の写真を飾ってましたよ。 あとちなみにうちの集落全体でお祭りに使う獅子舞なんですが、この獅子舞はうちにおいとかないといやがっていろんな事がおこるようです。 **************************************** サイト妖怪王トップページ http://www.top.ne.jp/aliceweb/youkai/ *************************************** 第9回 「お達者語り部倶楽部」 石神さん(80代)前編 聞き手・山口敏太郎 生まれたのは白井で、結婚してこちらに来ました。子供の頃はおはじきをやりましたね。おはじきの歌なんかもありました。「いちりつらんぱんはれつして♪」って後は忘れました(笑)。あと当時は竹馬でどこまでも行ったもんです。竹馬では、”かつぶしかけ”という遊びをやりました。 昔は田舎には細い川がありましたね。山から「しぼり水」が流れてきますからね。綺麗なものです。大神保(当時はおおじんぼと呼ぶ)の人達と富里の私達は仲良くてね。よく遊んだものですよ。 親は身体が弱いし、でも医者には行けないし。農家の収入って無いときはありませんでしょ。ですから、わらびを採って、六実の市場に売りに行ったもんです。(母親と私の)二人でとると大体一日5円ぐらいにはなりました。いくらかのお金がたまると、船橋の渡辺病院に父親を連れて行きました。行くと幾分楽になるんですよ。でも昔はなかなか続けて医者にいけないんですよねえ〜。 兄が兵隊に行きまして、年老いた母と、兄嫁と小さい子供では、畑仕事ができないんです。だから嫁にいかず、農家をやってました。だからここに嫁に来るのは遅かったんです。恥ずかしいくらい。大東亜戦争さえ始まってなければ、片づいていたんでしょうね。 兄は最初は満州に行ってたようですよ。その後は随分と奥地に行っていたようですね。でも無事に帰ってきましたよ。この暮れで、兄は亡くなって13回忌ですね。(戦争に行った人は)いろいろ身体悪くしてましたね。マラリアって言うんですか、あれにかかってました。戦争中はみんなが苦労しまししたよ。サイレンなるとうちが部落の真ん中ですから、みんながうちの近所に集まってくるんですよ(笑) **************************************** サイト妖怪王トップページ http://www.top.ne.jp/aliceweb/youkai/ *************************************** 第10回 「お達者語り部倶楽部」 石神さん(80代)後編 聞き手・山口敏太郎 ちょうど葬式のあった時でしたね。B29が集団で飛んできて、(東京へ)爆弾を落とすのが聞こえるのです。でも不思議に大勢でいると怖くないのね。戦争ってものはねえ、本当に意味がないですよ。まあ、兵隊様が訓練しているんで、時々試したくなるのかもしれないね(苦笑) 行商は戦前は薬売りぐらいしか来なかったですよ。戦後は米が欲しいのでしょうね。いろいろが行商がきましたよ。知人がよく、飛び出す絵本を甥に持ってきてくれました。甥は3回読み聞かせると覚えちゃう。(甥は)今はダンプに乗って仕事やってますよ(笑) うちの主人は27.8才で亡くなってしまいましてね。感電してしまったのですよ。昔は電柱って木で出来てたじゃないですか。あれが倒れてたんです。そこで感電しちゃったんです。終戦当時は毎日電気送ってこなったんです。たまたま高圧線に送ってきた日に感電してしまったんです。子供が一人いてね、あと義父がいまして…。義母は既になくなっていました。孫が出来てすぐ亡くなったのです。昭和23年1月に義母が亡くなって、4月に息子(石神さんの主人)が亡くなったんです。 その後、農家の仕事をやったんですが、つらくてね。病気とかしたことなかったんですが、なんか具合が悪くなっちゃたんです。だから実家で養生し、医者に行ったんんですが病名がわからないんです。ですから子育ては苦労しました。特に(親戚にあたる)お滝のシバサキ屋さんには御世話になりましたね。 (私の)息子は、鬼越のN社で働いている女性を嫁にしたのです。当時は大きな荒城があったのです。(嫁の)出身は茨城なんですがね。今、孫は3人いますよ。曾孫はまだいません。(孫のうち)女の子は嫁に行きました。 **************************************** サイト妖怪王トップページ http://www.top.ne.jp/aliceweb/youkai/ *************************************** 第11回 「お達者語り部倶楽部」 さん(80代)後編 聞き手・山口敏太郎 (お手玉を手に取りながら数え歌を唄ってもらった。)”一番始めは一の宮、二は日光東照宮、三また佐倉の宗五郎、四つはまた信濃の善光寺、五つ出雲の大社(おおやしろ)、六つ村々の鎮守さま、七つ成田の不動さま、八つ八幡の八幡さま、九つ高野の弘法さま、十は東京東照宮”農協で前に歌詞カードもらって歌ったけどね。歌詞カードは捨てちゃったよ(笑)お手玉のできる人は前に出てやってくださいって…(農協のイベントで)言われたけど、旨い人でも10まではなかなかできないよ〜ね。だから(数え歌も)10までは歌えないわけですよ。(お手玉を実際にやりながら)同時に2個はみんなやるけど3個はなかなか難しいですよ。あと、竹馬だってね。山さ行って松を切って来てね。竹にその松をまいてね。竹と竹じゃはずれちゃうですしょ。(影踏みについて)あとジャンケンして、勝った人間が影に隠れてね。でも夕方になると鬼につれて行かれるってことでやめちゃうわけです。鞠つきもやりましたが、歌もあるんです。一列らんぱん破裂して、日露戦争の闘いは、さっさと逃げるはロシアの兵、死んでもつくすは日本兵、五番の兵を〜。あとは忘れちゃったね。いろんな鞠の足のくぐらせ方があるんですよ。3まで片足でくぐらせるんです。10までは難しくてねえ〜。他に学校でも鬼ごっことかやりましたね。うちの影や、藁の影に隠れましたね。 山口敏太郎調査(鞠つき唄 1、一列談判破裂して 2、日露戦争始まって 3、さっさと逃げるはロシアの兵 4、死んでも尽くすは日本の兵 5、5万の兵を引き連れて, 6、6人残して皆殺し 7、7月8日の戦いに 8、ハルピン迄も攻めいって9、クロバトキンの首を取り 10、東郷大将万々歳)*大人による戦争がいかに子供たちの心に、大きな影響を与えているかを記録する意味でここに記す。 **************************************** サイト妖怪王トップページ http://www.top.ne.jp/aliceweb/youkai/ *************************************** 第12回 「お達者語り部倶楽部」 さん(80代)後編 聞き手・山口敏太郎 休み時間に鞠つき歌なんか歌いました。鞠も小さいのをたもとに入れて学校行ってね、〜あとかくれんぼなんかもしました。でも、夕方までかくれんぼやってると、鬼に連れて行かれると言われててね。怖くてやめちゃった。それに、花一匁やかごめかごめもやったね。当時は男と女は別々に遊んでましたよ。男と女が一緒にあそんでいると「まめっこ」って言われてからかわれたもんです。 戦前の楽しみは、田植え休みの時に着物来て、浅草まで映画に行ったもんですね。ここから津田沼まで歩いて秋葉原でおりて、都電で浅草へ行ったんです。あの頃はチンチン電車が都内にもいろいろあったですよね。あと近くの映画館には、船橋の大神宮の裏門の十字路に「宮下館」という映画館があってよく行きました。田中絹代さんが人気ありました。他にも「シンコウ館」という映画館もありましたね。宮下館は恋愛もので、「シンコウ館」はチャンバラものでしたね。議員さん薄井秀夫さんのお父さんが「宮下館」を経営していたはずでしたよ。当時は大神宮下周辺が賑やかでしたよ。(石神さんがコメント)恋愛ものは利根川ものと言われてましたよ。利根川バックに撮影されてんです。 戦争中は空襲警報とかあると、すぐ電気消したり、何か(電気に)かぶしたりしてね。男はみんな兵隊に行ったから、昔の娘達は役に立ったものですよ(笑)終戦後は馬ひっぱって勤労奉仕に行ったもんですよ。男いないもんですからね。津田沼の線路のところさに、砂利に持っててね。砂利を落としたら、馬が驚いて飛び上がってね。 昔、船尾の虫神さまというのがあって、よくお参りに行ったもんですよ。津田沼から折り返しバスがあったのよ。船尾バス終点というバスがあったんです。船尾には、いぼ神さまというのがありましたね。シャゼムさんの家に、虫神さんの祠がありましたね。しゃざえもんをしゃざむと言うんです。他にもゴンザエモンはゴンゼム、ハチロウエモンはハチロエム。衛門がつくと省略するんです。せいべえはせいべえ、そのままですね。あと滝不動に行っているある方が、割り箸3本結んでね。いろいろ聞くと自動的に動くんです。私は気持ち悪くてやんないけどね。 ****************************************
サイト妖怪王トップページ http://www.top.ne.jp/aliceweb/youkai/ *************************************** 第13回 「お達者語り部倶楽部」 3人のご老人 ? 斉藤ヤスさん(80代)? 小出じいさん 前編 聞き手・山口敏太郎 この集落には昔、随分大きな欅があってねえ、5.6本あったかな。みんなあげちゃったよ。薬園台に水飲み台あってね。あと明治天皇の石碑もあったよね。原に来てよって演習見てかえった記念碑だよ。(斉藤ヤスさん発言・あと戦争中に(国に)いろいろ田んぼもっていかれてね。戦争終わってたら返してくれるっていうのがかえって来なかった。みんなマンションになってしまった。あと北習志野の開拓が進んだのは戦争後でね) 北習志野の郵便局あたりなんかみんな開拓だよ。戦争から帰ってきた人が開拓したもんだよ。新京成も薬園台までしかなくてね。その次は、習志野まで延びたかな。北習志野で商店街やったのはいつだったかね。昭和24.5年かね。警察署の近くにあったロジュン港の模型は残しとけば良かったね。いろいろ人が来て、儲かったかもしれないよ。 (斉藤ヤスさんを指さし)この人は北習志野の商店街で八百屋を初めてやった人でね。随分儲かったんだよ。そのお店譲って袖ヶ浦団地にいたんだ。うちの兄貴は2・26事件、満州事変、シナ事変、大東亜戦争とか4回(戦争に)いっちゃったんだ。佐倉の歩兵連隊に会いに行ったことがあるよ。(そこへ落ち葉マークの車が到着、年配の男性が運転している)あっぜんべえのじいさんかな? (小出?氏が加わり発言・明治天皇の石碑は、移動しただよ。東京もんが来て、明治天皇の石碑はどこですか?って言うから案内してやったら…ないんだよね。今は郷土資料館に移動してんだよね。元々あった場所は住宅になってるかな。ロジュン港の中に子供の頃入ったよ。もちろん、日頃は見張りの兵隊がいるから、いない頃見はからって入るんだよ。 あそこに「フルタマよけ」って呼んだもんがあったよな。あとねえ、強清水っていう(湧き水)がロジュン港(模型)の近くあってね。子供が飲むと水だけど、大人が呑むとお酒になるって水があった) (斉藤ヤスさん・発言 あそこに大きい水たまりがあってね。子供が落ちて死んだ事があった。みんな河童にやられたとか言ってたけど、自分でおっこっただけだよね) **************************************** サイト妖怪王トップページ http://www.top.ne.jp/aliceweb/youkai/ *************************************** あきるのネット 現代妖怪録 1回 口裂け女 30代のお父さん、お母さん世代に、大きな衝撃を与えた妖怪。昭和50年代前半に日本中を震撼させた。岐阜がその発生した最初の現場だと言われるが、他の説もいくつか存在する。大きく裂けた口をマスクで覆い、子供たちに「私、きれい?」と聞く。「綺麗だよ」と子供が答えると、マスクをとって耳まで裂けた口を見せて「これでも〜」と更に尋ねるのだという。この妖怪は整形手術に失敗した女がなったものと言われ、100mを10秒で走るとされた。また異説では赤いスポーツカーに乗っているとも、三姉妹であるとも噂され、撃退する呪文として「ポマード」という言葉が子供たちの間で信じられた。 **************************************** サイト妖怪王トップページ http://www.top.ne.jp/aliceweb/youkai/ *************************************** あきるのネット 現代妖怪録 2回 注射男 小学生を校門前で待ち伏せしており、時間を聞く振りをして子供の腕に劇薬を注射としてしまう恐ろしい妖怪。かつて兄により座敷牢に幽閉された人間の怨念がこの妖怪に変化したと言われ、幸せな子供達に復讐するらしい。その姿は全身を包帯にまかれ、まるでミイラ男のようであるという。この妖怪はバブル期によく聞かれた妖怪で、筋弛緩剤による愛犬家連続殺人事件がその成立に要因にあるのかもしれない。また、平成以降あかるみになった看護士による疑惑の事件や、医者や看護婦の相次ぐ医療事故や、安楽死事件に対する人々の不安感が妖怪という形になったのであろうか。 **************************************** サイト妖怪王トップページ http://www.top.ne.jp/aliceweb/youkai/ *************************************** あきるのネット 現代妖怪録 3回 人面犬 昭和50年代から噂される妖怪。犬の体に人の顔をしており、その顔は大概が中年の親父だという。ある話によると、ゴミ箱をあさっているところを見られ、「ほっておいてくれ」と答えたと言われている。また、高速で走行中の車を追い抜き、振り返り「にやっ」と笑うというエピソードもある。ひょっとすると、現代のゆがんだ中年男の念が妖怪化したものかもしれない。タレントの的場浩司が広めたと公言しているが、江戸期からその存在は記録されている。筑波での遺伝子技術によって生まれたという解釈もなされているが、かつて日本人を驚愕させた人面牛のくだんの如く、人面妖怪は末法の世の兆候なのだろうか。 **************************************** サイト妖怪王トップページ http://www.top.ne.jp/aliceweb/youkai/ *************************************** あきるのネット 現代妖怪録 4回 坊主男 船橋市周辺に現れる謎の坊主頭の男。90年代以降噂が広まったが、実は昭和30年代からいたという説もある。別名「タマ」とも呼ばれ、世代によって名前が違う。この都市伝説妖怪(怪人物?)のモデルが実在するとされるが、既に40年以上経っており、謎が深まる。小人から急激に大きくなるとか、頭をぐりぐりと刷り寄せてくるとか、その奇怪な行動はまさに妖怪である。急に大きくなる性質などは「見越し入道」系の流れを組む妖怪なのであろうか。千葉県はかつて山下清が学んだ学園があり、本人も千葉県下で活躍したのだが、その残映が都市伝説として成立した可能性はある。 **************************************** サイト妖怪王トップページ http://www.top.ne.jp/aliceweb/youkai/ *************************************** あきるのネット 現代妖怪録 5回 テケテケ 筆者が初めてこの妖怪を聞いたのは、大学時代であった。80年代後半、なんとなくクリスタル世代、新人類と呼ばれたニューフェイスが活躍した時代である。この妖怪は「テケテケ」という音を立てながら追いかけてくるという。まるで寺内タケシのエレキギターのビートではないか。最初は追いかけてくるという設定のみだったが、交通事故で死亡した人の霊であるというキャラ設定が「学校の怪談」ブーム以降追加される。友人の妖怪研究家松山ひろし氏は「テケテケ」は伝承妖怪「べとべとさん」の末裔でないかと推理している。道を人に譲る事を教える「べとべとさん」が交通事故妖怪「テケテケ」と関連あるのは皮肉である。 **************************************** サイト妖怪王トップページ http://www.top.ne.jp/aliceweb/youkai/ *************************************** あきるのネット 現代妖怪録 6回 赤いマント 古典的便所妖怪。一説によると日露戦争当時既に成立していたという。明治〜昭和を生き抜いた近代妖怪。学校の便所に出る妖怪で、便所に入る生徒に「赤いマントが良いか、青いマントか良いか」と聞くらしい。「赤いマント」と答えると刺殺され、血だらけにされる。「青いマント」と答えると血を吸われて、真っ青な顔になって死亡するという。最近の妖怪「赤い紙 青い紙」とも同じ系譜である。マントというモチーフが明治から昭和にかけて横行した人さらいを連想させ、子供の恐怖心をより一層そそったのであろう。文明開化により洋装に着替えた記念すべき妖怪である。 ****************************************
サイト妖怪王トップページ http://www.top.ne.jp/aliceweb/youkai/ *************************************** |